newdubhall is a sound label since 2017. experimental dub music from the far east.

talking place Undefined インタビュー pt.1:〈前編〉 ─定義なきダブのスタイルへ─

talking place#11
with Undefined pt.1

Undefined

キーボード&プログラミングのSaharaと、ドラムスのOhkumaにより結成されたエクスペリメンタル・ダブ・ユニット。
2017年デビュー7インチ「After Effect」をリリース。以降、こだま和文との共作「New Culture Days」、dBridge、Babe Roots等との共演/リミックス作品を発表。2022年4月、アメリカ・ポートランドの〈Khaliphonic / ZamZam Sounds〉よりPaul St. Hilaire、Rider Shafique、Ras Dasherを迎えたファースト・アルバム『Defined Riddim』をリリース。

ここで当コーナー、待望のふたりに2回にわたってそれぞれ登場を願おう。レーベル〈Newdubhall〉を主宰するアーティスト・ユニット、Undefinedだ。いわば本ページの主でもある。そのサウンドは、オーセンティックなルーツ・ダブを下地にしながらもミニマル・ダブやダブステップなどカッティング・エッジでモダンなサウンドを融合させ、ダブの可能性を拡張しているユニットだ。スライ&ロビーやルーツ・ラディクス、そしてその伝統に則ったドライ&ヘビーと、レゲエやダブの、その定石においてバンドの中心はやはりドラム&ベースであるが、Undefinedはそこからして規格通りではなく、キーボード&プログラミングのSaharaと、ドラムスのOhkumaによる変則的な編成のダブ・ユニットとして存在している。

そのスタイルは、まさに唯一無二の存在感を放ち、ディスコグラフィーは数枚のシングル・リリースながら国内外で高い評価を受けている。彼らの名前を世に知らしめたこの国のダブのイノヴェイダー、こだま和文をフィーチャリングした2018年の「New Culture Days」では、大胆に切断されたワン・ドロップを、そしてアメリカはポートランドの〈ZamZam Sounds〉からリリースされたライダー・シャフィークをフィーチャーした2019年のシングル「Three」ではどこかCANのモータリックなドラムを彷彿とさせる独自のミニマリズムをダブへと昇華させるなど、まさにその名前のように定義できないサウンドを生み出している。

2010年代中頃にその活動をスタートさせた彼らがこのたびついにファーストアルバムをダブの牙城〈ZamZam Sounds〉からリリースする。ということで本コーナーでは2回にわたって、Undefinedのふたり、それぞれにインタヴューを行い、その類い稀なスタイルの源泉を探ることにする。
今回は、キーボード&プログラミング、そしてレーベルの運営も担うSaharaに登場願おう。彼らのスタートの地、初のライヴの場所となった落合の〈Soup〉で話を訊いた。

インタビュアー:河村祐介 / 写真:西村満

はじまり

音楽にはまったきっかけは?

Sahara練馬が地元なんですが、隣町にあるスケートショップがひとつ起点になっていて。当時、自分は中学2年とか3年生、そこに出入りしていた先輩たちに教えてもらったヒップホップが大きかったですね。そのお店主催のスケボーの大会なんかで、7~9歳くらい上の、地元の大先輩たちがDJブースで音楽を担当していて、そこから興味を持ってという感じですね。当時はジェルーとかグループ・ホームとか、DJプレミアの黄金期で、やがてスクラッチをやってみたくてDJをはじめたという。

現在キーボードですけど、子供の頃にピアノを習ってたとかはないんですか?

Sahara幼稚園が音大付属でバイオリンをやらされてたのはありますけど、ピアノはまったくですね。

なるほど、ヒップホップにはまって、その後、打ち込みとか、そっちの方は?

SaharaDJをはじめて、そこから17歳ぐらいのときにアルバイトをしてお金を貯めてMPC3000を買って。若さもあって、そのときに面白いと思ったモノを無我夢中でやるという感じで。当時IDもうるさくなかったので、先輩達が主催するクラブ・イベントに出演させてもらったり、友人のMCの後ろでDJやったりとか。MPCを買ってからは、サンプリング用のいわゆるジャズ、ソウルやファンクのレア・グルーヴの古いレコードを買いつつ、当時はDJシャドウとか〈MO'WAX〉とかロニ・サイズ、ドラムンベースとかも聴いてましたね。そういった当時最新の音楽と、いわゆるネタを掘っていくなかで「シャドウがサイケデリック・ロックを掘っている」とか、王道のサンプリングソース以外にも興味がわいてきて、そんななかでレゲエとの出会いがあって。きっかけは〈Rawkus〉からリリースされてたReflection Eternalの曲で、DJ Hi-TekがU-ROYの「Tom Drunk」を使っていて、そこからレゲエも掘り始めて、そこで興味がわいていくという感じですね。それが18歳くらい。

そこでレゲエなんですね。

Sahara当時〈Soul Jazz〉から『100% Dynamite』っていうレア・グルーヴ好きも聴けるレゲエみたいなコンピが出てたんですけど、ドラムの強さや質感だったり繰り返されるリズムにヒップホップとの共通項を感じて、ものすごく惹かれました。そこから収録曲のアルバムを買ったりしてる中でオーガスタス・パブロを知って「ピアニカなら自分でもできるのかも」と思って。キーボードを覚えはじめたのもその頃からですね。

パブロが転機なんですね。その後、レゲエも作るようになると。

Saharaもうひとつの転機としては、こだま(和文)さんのライヴを『RIDDIM』の200号記念イベントで観たことですね。ソロのシンプルなトラックでの演奏と、現在も続いているダブ・ステーション・バンドの始めてのライヴで。パブロとそのライヴがものすごい自分のなかで大きいですね。ダブ・ステーション・バンドのメンバーが、ほぼヤッホーバンドのメンバーの方々だったんで、すぐにヤッホーバンドのライヴに通うようになって。ベースの河内(洋祐)さん、キーボードの(北村)哲さんにライヴに通っては話しかけて、自分が作った曲を渡し続けて(笑)。

おっかけですね。

Saharaそうこうしているうちに哲さんがリーダーのDubwiserっていうバンドに誘ってくれて、それが20歳くらいですね。ちゃんとしたバンド活動と言えばそれが最初ですね。

『RIDDIM』200号が1999年のようなので2000年代の頭くらいってことですよね。

Saharaそうですね。Dubwiserで対バンをしたりして、当時のレゲエやダブ、ロックステディーのオーセンティックなバンドなんかもよく観ていたんですけど、同時に自分のなかではエレクトロニック・ミュージックも変わらず好きで、その頃にはエレクトロニカとか池田亮司さんのようないわゆる音響系、ベーシック・チャンネルとか、J・ディラからデトロイト・テクノが繋がっていったり。だた、そうしたエレクトロニック・ミュージックとレゲエを分けて聴いてたところが正直あったんです。そんなときに当時ドラヘビを脱退した秋本(武士)さんがレベル・ファミリアをスタートさせて、そのライヴを〈LOFT〉で観たときに、自分のなかでのオーセンティックなレゲエの価値観が壊れてしまったところがあって。さらに、当時、そこと並行して別のものとして聴いていたモダンなエレクトロニック・ミュージックとの壁も壊れたというか。全てがひとつになったというか。それで「秋本武士という男はなにものなんだろう」と、当時〈Heavy Sick Zero〉でイベントをやっていたんですが、その仲間内のなかで「レベル・ファミリアがすごい」という話をよくしていて。そうしたら〈Heavy Sick Zero〉のイベントにレベル・ファミリアが出演して、そこではじめて秋本さんに「Dubwiserでキーボードをやっていて……」という感じで話かけたのが最初ですね。そのときはそれまでだったんですけど、後日、河内さんから「おそらくカズ(Sahara)のことだと思うんだけど秋本さんがdubwiserのキーボードを探してる。連絡先を渡しといたから、近々連絡が来ると思う」という話になって。

秋本さんの電話がそこで(笑)。

Sahara当時、秋本さんのなかでThe Heavymannersの構想があって、それで「一度スタジオに遊びに来てみたら」と声を掛けてもらって、それが2004年かな。

The Heavymanners自体がアルバムを出すのは2008年とかですよね。

Saharaそうですね、2004年くらいから合流させてもらって、練習がスタートしてという。そこからは週2回のスタジオ練習だったと思います。最初の3年ぐらいはまったく人前で発表することもなく、レコーディングはもちろんライヴの予定もなく、ひたすら練習という感じで。1週間のうち全体の練習をやる2日は、秋本さんに「こんな技学びましたよ」とプレゼンというか挑戦をする場という感じなので、残りの5日間は次のスタジオに向けてひたすら自主練の日々でしたね。時間が惜しいのでいつもつかっていた高円寺のスタジオの近くに引っ越して、当時はブラック・スモーカーの事務所も近くにあって、なんというか当時のことは貴重な体験でもあり、ある意味で自分にとっては青春ですよね。

しかし、噂には聞いてましがたやはりすごいストイックなんですね。ちなみに辞めようと思ったのは?

Sahara2008年のリリパの頃には実は辞めようという決意はあって、実際にはその1年後ぐらいですね。それこそそのリリパもリキッドだったり、それまでも名だたるフェスにも出演させてもらったりと本当にすごい経験をさせてもらったんですけど、いま考えると、地元のスケートショップでの先輩たちとの出逢いにはじまって、Dubwiser、秋本さんといつも年上の方々にお世話になってという感じだったので、どこかで独り立ちがしたいと思っていたんだと思います。年齢的にも30歳目前だったので、自分の人生を考えてもそういう時期だったんだと思います。とにかく一からではなくゼロから自分のことをやってみたいという。

ゼロから

そこからUndefinedをはじめる2000年代半ばまでは5年ぐらいありますよね。

Sahara実はこだまさんや秋本さん、パブロの音楽と出会ったのと同じ様な衝撃というか、もうひとつ大事な音楽的な経験や出会いがあって。少し話が戻りますが、高校生のとき、ほぼ毎日のように江古田のココナッツ・ディスクに通っていて。通いすぎてて、たぶん中古の新入荷の頻度よりも高いぐらいに(笑)。そこで店長の松本(章太郎)さんと話させてもらうようになって、高校を卒業したタイミングで「働きたいんですけど」って言ったら働かせてくれて。ココナッツ・ディスクではこれまで出会わなかったような人たちと出会えたのと、とにかくそこで自分が知らなかったいろいろな音楽の世界を知りましたね。特に大きい出会いがあって。それは自分と同学年で、東京藝大の作曲科の人がいて、彼はクラシック~現代音楽~ライヴ・エレクトロニクス、その後にダブに行くというような遍歴の人で。彼と意気投合して音楽の情報交換をずっとしていて。とにかく自分の知らないことをよく知っていて、当時、ポール、アルヴァ・ノト、オヴァルとかを教えてもらったり、あとはもちろん現代音楽に詳しいので「ヤニス・クセナキスはこういう理論で」とか「サウンドスケープという概念があって」とか教えてもらってという。max/mspやProcessingなどプログラミング言語で作曲できるということも彼から教えてもらいましたね。

彼の存在によって現在につながるようなエレクトロニック・ミュージックとか実験音楽へのより深い感覚の途端が開けたという感じなんですね。

Saharaそうですね。そうこうしているうちに、The Heavymannersの活動が本格化すると、リハーサル、自主練に加えて毎週のように地方も含めてライブがあってという感じになって。なので、そういう音楽は好きだけど、自分の表現というところには介在させずにちょっと別のところに置いといたという感覚があったんですね。それで、The Heavymannersを辞めたときにゼロからなにかをやるという意味でも、今度はプログラミング言語での作曲をやってみようと。それで当時持ってたレコードや機材を全部売って、パソコン1台だけを残して、プログラミング言語を独学で学んで曲を作ろうと。そこからはひたすら勉強⇆曲作りの日々でしたね。より深い知識が欲しくてWEB関連のエンジニアの職にも就いて。で、3年ほど経つとある程度その手法も確立されて形になってきたんですけど、1曲として自分の納得のいく曲ができなくて。

また壁に。

Sahara年齢も30歳を過ぎて、昔一緒にDJをやっていた友人が音楽を辞めて料理の道に進んだり、地元の先輩が機材を仲間に託して別の道に進む背中を見せてもらっていたので、自分もダラダラ続けるなら別の道をみつけて音楽をキッパリ辞めようと決心したんです。それが2012年ですね。辞めるにあたって、納得したかったので改めて自分自身の音楽遍歴を振り返ってみたときに、ダブに関しては誰に何を言われても動じない、ひとつ揺るぎないものがあるんだなと。その3年間は意識的にも無意識的にもダブから離れようとしていたんですが、そうすることで俯瞰してダブをもっと大きく捉えることができるようになっていたんです。哲学というと大袈裟なんですが、そういったものが自分の中にあることを知って、それであれば最後に自分のこれまでの全てをダブにぶつけてみようと思ったんです。それでダメなら諦めようと。そこで覚悟ができたんだと思います。それが現在のUndefinedの構想につながっていきますね。